人道問題映画「エグザイル インサラエヴォ」「ケドマ〜戦禍の起源〜」(パレスチナ)

昨日、想像を絶する人道問題をテーマにした映画「闇の子どもたち」について書いたが、これと同じ位酷くトラウマになりそうなテーマを扱ったのが、「エグザイル イン サラエヴォ」だ。これは、完全にドキュメンタリー映画で、映像のリアリティは先日紹介したパレスチナ映画「ガータ」に似た緊張感がある。これを見たのは、数年前僕が旧ユーゴスラビアを旅し、帰国後にこれらの国々の戦争状況がどれほど酷かったのかを掘り下げる必要性に駆られ、旧ユーゴの映画を探し漁ったときに見つけた映画の一つだ。他には、かなり以前の日記に書いた「ウェルカム・トゥ・サラエヴォ」「パーフェクト・サークル」「ノーマンズランド」「アンダーグラウンド」「ボスニア!」「セイビング・フロム・エネミーライン」「ビフォア・ザ・レイン」(マケドニア)「ブコバル」(クロアチア)のほか、いくつかある。(確か、ヨーロッパの最貧国といわれるアルバニアの少年を誘拐し、ギリシャのブローカーに売り渡す映画もあった。名前は今は思い出せない。。。)
http://www.pluto.dti.ne.jp/~z-chida/movie.htmlより、一部参照させていただきました)

僕は、大学生の頃から人道問題には関心があった。特に、紛争地域に生きる人々の生活に真剣に関心を持ったきっかけが、いや持たざるを得なかったきっかけが、やはり旧ユーゴ圏を旅した事だ。これらの国々をバスや鉄道で国境をる術をさがしていたら、地図上で国境付近には「地雷注意」の意味の赤い色が信じられない位広い範囲に塗られていた。まるで、地図そのものが地を流しているように。
また、サラエヴォでは「スナイパーストリート」と命名された大きな通りがあり、狙撃手と他民族の一般市民同士(イスラムボスニアセルビア正教セルビア人、カトリック教会のクロアチア人)が互いに残虐に殺しあった血なまぐさい悲劇があった。

更に最も悲惨で、その後の僕の人道問題・紛争問題を考えさせる事になった、言い換えると、一つのトラウマのような暗い影を落としたきっかけになったものがある。
それは、ボスニアの首都サラエヴォの中心地にあるオリンピックスタジアム(1984年開催:共産圏で初めて冬季オリンピックが開催された。)とその周辺の風景だ。1992年から1995年までのボスニア紛争で破壊され、現在は紛争で亡くなった人々の墓地になっている。今度、この写真をアップします。

また、先日(6/20)UNHCR国連難民高等弁務官事務所)主催で国連大学で開催された「世界難民デー」(http://www.unhcr.or.jp/Tokyo-Release/2009/2009wrd-webstory.html)に参加した際に頂いたUNHCRの活動報告誌「REFUSEE」の2005年版Vol.3 Number140の表紙の写真は、僕がまさにボスニアモスタルという都市を旅した際に、平和祈願
のために「DON'T FORGET '93」と刻まれた石そのものだったので非常に驚いた。(今度画像をアップする予定。)

ベオグラードでは大きなビルがNATO軍に空爆された廃墟のままの幽霊のような姿をしていた。

このような悲惨な場面を捉えた写真集に「Colours of War 〜戦争のある風景〜」(光琳社出版)がある。

この写真集は、他にもソビエト崩壊後エストニアラトビアリトアニアバルト三国がロシアからの独立戦争で亡くなった人々の悲しみの風景も撮っている。

写真ではないが、平山郁夫氏の文画集で、サラエボで生きる人々、戦争の傷跡を描いた「サラエボの祈り」という本がある。これも僕にとっては本当に大切なサラエボの記憶の一部と化している。

特に、最後のページの「平和の祈り〜サラエボ戦跡〜」は、見ていると涙が出る。以前、平山郁夫氏の絵画展で実物を見た。特に、爆撃の後で破壊され廃墟と化したビルを背景にして立つ子ともたちを描いた絵だ。
彼等の、しっかりとまた確かに前を見詰める表情に、救われる想いを抱く。
この絵の中の子どもたちは、「エグザイル イン サラエボ」の実際のストーリーの様に、以前は仲の良かった親や隣人同士が殺し合ったり、学校の先生が、異民族の生徒を優しい言葉で暗い教室に連れて行って、ナイフを取り出して刺し殺したり、異民族の兵士・市民に母親や姉妹をレイプされた後殺されるシーンを目の前で見てきたのかもしれない。
僕らの想像を遥かに絶する深い悲しみに苦しんだのだろう。いや、現在も苦しみ続けているかもしれない。そして、僕の記憶の中でもサラエボに生きる人々の苦しみを思い出すことがある。

僕の理想は、自分が実際にこれらの地域、国々で経済開発に携わる事だ。数年前僕がに訪れた時期のサラエボでは、失業率が50〜70%だったと聞いた覚えがある。現在の状況はどれほど回復したのだろうか。最近は、セルビアモンテネグロコソボがそれぞれ独立し、紛争の酷い情報も特には聞かなかった。(これは、日本にいるからなのか?イギリスに在住していた友人は、ユーゴの詳細な情報を知っており、日本語だけの情報網では、個人としても限界がると痛感した事がある。。。だからBBCやFrance24をはじめ国際的な英語放送局の情報を仕入れ、聞けるようになる必要がある)

ここで、いつもの日記のテーマにつながるのだが、バルカンの国々に対する貧困対策を行っている組織はどれほどあるのだろうか。「チェンジメーカー」という本で、紛争地域の子どもたちに平和な世界を築かせる画期的な教育プログラムがあったのを記憶している。
民族構成が複雑なこの地域であるので、各民族の宗教、思想、対立に慎重に対応しながら、紛争後に生まれた子どもたちを中心にして、先の平和構築プログラムを進める必要がある。そしてはじめは各民族内でのコミュニティをつくりマイクロクレジットを実践し、平和な教育を受けた世代が育っていくに応じて、嫌悪感の壁の低い異民族とのコミュニティを創り、この人たちにマイクロクレジットを徐々にだが、実践できないだろうか。無理か。

だとしたら、この全く別のソーシャルベンチャーが必要か。異民族同士で強調する事で経済発展に取り組む事に対して、EU全体が特別優遇税制を設けたり、EUROとの交換可能な地域通貨導入するなど。EU全体にとっても。バルカン半島の国々の安定は、より低コストで製造業をはじめとした直接投資先になりうるのでは。先日ポーランドの友人の言葉にあるとおり、今や、チェコポーランドなどは、金融危機を脱しつつあり、EU加盟後徐々に労働コストが上がっているという。であるならば、今度はバルカンの国々が「生産工場」の候補になり得る。

「平和」が「ビジネス」に結びつく、重要なポイントになるのではないか。