映画「いのちの食べ方かた」から見える現代社会の縮図

昨日、「いのちの食べかた」(オーストリア映画)を観た。

これは、現代社会に生きる僕らの食文化の全過程を余す所なく描いた、究極の映画だった。

何よりも、全く言葉のメッセージがない。よって、必然的に、映像のメッセージ性の重みが相対的に飛躍的に上がる。IT機能の向上で飛躍的に情報量が増した「言葉」のメッセージ性が、逆に受け留め側人間にはかなりめんどくさくなっているのを実感する昨今、ひとこともメッセージが存在しないのは、とてもシンプルでわかりやすかった。

これは、比較するなら、チャーリー・チャップリンの「モダンタイムス」(1936年のアメリカ映画)と重なる部分がある。

「資本主義社会を生きている上で、人間の尊厳が失われ、機械の一部分のようになっている世の中を笑いで表現している。」wikipedia (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9より)

絵画で言うなら、1949年岡本太郎作「重工業」がその現実を語っている。

資本主義社会の発展は、分業による協業の産物だ、とある経済学者が言ったのを記憶しているが、「いのちの食べかた」はその全過程を鋭くえぐる良作だろう。

野菜などの農作物だけではなく、鳥、豚、牛、魚などの動物が飼育され、人間の食用に加工され、屠殺されるシーンは、生物全体をバランスよく包み込むはずの生態系そのものを人間が破壊しているのが明らかにされ、見るのが辛かった。だが、それ以上に、それら食料の加工業の過程で働いている人たちの表情がどれも「存在性」「個性」を失っていることの方が、僕には辛かった。

これでは、チャップリンが70年ほど前に描いた現実と同じではないか。豊かさとは何か。意義ある働き方とは何か。変わらないのか。変えられないのか。

そんな現代社会に対する虚構性の実体を描いていた。

それに対して、学生時代の親友であり、「思考のマイスター」である、motomu kannda から話を聞き、過度の「分業による協業」時代への打開策のヒントを得られたのが救いだった。

彼は、すべての個人に秘められた「個性」「多様性」が、新たな社会の創造を生み出す、という。画一化された教育システムからは、もし社会、コミュニティに危機が訪れたときに自ら何も打開策を打ち出せない。これが今の日本社会の問題の根源だ、という。

そもそも現代社会は、人間が通貨による時間、物質の取引を可能にした事が発展の原因だが、それとともに個人に秘められた本来の「創造のプロセス」で経験する自己発見、自己教育の機会が失われ、これが社会全体での問題解決力の足枷になるという。

本来は、人は創造の過程で自ら楽しみを見出し、自発的に創造への可能性を開く偉大な存在であるのに、現代社会の経済システムが、その楽しみ=生きる過程を愉しむ機会をも失っていることになるという。

参考に、「いのちの食べかた」に反する良書として気になるのが、「ぼくは猟師になった」だ。

地球の裏側から輸送された食材がスーパーに並び、
食品の偽装が蔓延するこの時代にあって、
自分が暮らす土地で、他の動物を捕まえ、殺し、
その肉を食べ、自分が生きていく。
その全てに関して責任があるということは、
とても大変なことであると同時にとてもありがたいことだと思います

(アマゾンより引用)

また、僕の憧れている冒険家・石川直樹http://www.straightree.com/)や星野道夫の言葉もヒントになる。

ひとは、自然の中で、生きる過程を実感する必要がある。

ひとつの極端な例になるかもしれないが、僕はアマゾンに棲む「ヤノマミ族」の生き方が参考になるかと思う。

(2009年4月12日(日) 午後9時00分〜9時59分
総合テレビ ヤノマミ奥アマゾン 原初の森に生きる
http://www.nhk.or.jp/special/onair/090412.html

彼らは、生きる過程を全身で受け留めながら、動物の様に自然に溶け込んみながら生きている。
まさに「生きる」そのものだ。
ちなみに、「ヤノマミ」とは、「人間」という意味らしい。
なんと力強い言葉だろう。

現代社会のいきるぼくらは、いかに、彼らの様に、人間に本来備わっている「生きる力」「人間らしさ」を保ちながら、幸せを追求できるのだろうか。

僕の考える社会起業の目標も、この「人間性復権」にある。

僕の好きなフレーズに、ドイツの文豪ゲーテの傑作「ファウスト」でのラストメッセージがある。「人生は、結果のみではなく、むしろそこに至るまでの苦難の過程に本当の幸福の姿がある」